「ひぃ……ひぃ……!」
「はっ、はっ、はっ……!」
草木茂る森の中、土を覆い尽くさんほどの落ち葉を踏みしめかきわけ、二人の若い男が走っていた。
幼き頃よりの親友同士が、年齢不相応にじゃれ合い、互いの健脚を競い合っている――わけでは無論、ない。
そもそも二人とも友人ではなかった。貧困ゆえに今日の飯を食うに困り、やむにやまれず盗みを働いた。そのタイミングと場所が、たまたま一緒だったに過ぎない。
そんな二人の共通項といえば――。
「おおっと!」
声の主は、二人のちょうど真横、並び立つ木々の隙間から。
二人がそちらを振り向くより一瞬早く、昼間でなお薄暗い茂みの中から飛び出す影一つ。
「この俺様から、逃げ切れるとでも思ったかよコソ泥!」
言いながら立ち塞がったのは、二人よりも数歳年下と思しき少年。
軽装鎧に身を包み、両手に槍を握り締め、まだ少し幼さを残す顔には自信たっぷりな笑みが浮かぶ。
相手は一人、しかも年下。が、さすがに槍を突きつけられては足を止めざるを得ない。
「驚いた。あんた足だけは速いのね」
そして後方からの声は、ずっと二人を追い掛け回していた少女のもの。
おそらく少年と同年代。あどけなさが残るその表情に、少年のような笑みはなく。双眸は、ただ無慈悲に二人の「コソ泥」をとらえて放そうとはしない。
右手の長剣をだらりとぶら下げ、左手の短剣の切っ先を二人に向ける。
「それで? どうするの泥棒さん? 大人しく捕まってくれるのなら、血を見ないで済むと思うけど」
「そうそう! まああんたらの服装見るに、相当金に困ってるんだろうなーってのはわかるけどさー。ここは素直にお縄について、反省した方がいいぜ?」
少年の言う通り、二人の格好はかなりみすぼらしいものだった。
もう何日、何ヶ月と洗われていないであろうシャツは元の色もわからないほど泥だらけの穴だらけ。
ズボンなどあちこちから糸や繊維が飛び出し、靴にいたっては原型すら留めていない。裸足よりも幾分かマシ、といったところだ。
「そりゃ盗みは良くないけど、あの店のおっさんだって人の子なんだし、物を返して謝ればきっと――」
「うるさい! どけ!」
少年の言葉を遮って、二人は再び走り出した。無謀にも槍を構えた少年目掛けて、真正面に突き進む。
二人の必死な、まるで崖に追い詰められた者のようなその形相。その意味を少年が知ることなく、また考える暇もなく。
「……おばかさん」
二人が駆け出すよりわずかに早く、その気配を察知し事前に動いていた少女に追いつかれ、繰り出された斬撃により、二人の男は倒れ伏した。
――ガレイル帝国領アルティア自治区 テールマナの町――
「この――薄汚い三等民が!!」
狭い道具屋の店内に、店主の罵声と、もう何度目かわからない殴打の音が響く。
背中合わせにロープでぐるぐる巻きにされ身動きの取れない泥棒二人組みの顔は、店主による折檻で真っ赤に晴れ上がり、床にはかなりの量の血が流されていた。
少女が負わせた裂傷は薬で手当てしたが、今となってはそれが無意味なほどだ。
「お、おいおいおっさん。そいつらも反省してるだろうし、もうそのくらいで……」
「いいや! こいつらのような三等民は、何をしてもわからんよ! 今回は君たちが取り戻してくれたからいいものの、いつもはこいつらのせいでうちにどれだけの被害が出ているか!」
「え? そうなの?」
「ああそうだとも! おおかた、隣の三等民スラムから来てるんだろうがな」
「なあ、さっきからおっさんが言ってる『三等民』って何? 俺、最近この国に来たばっかで詳しいこと知らないんだけど」
「アルティア人のことよ」
ワイドの問いに答えたのは店主ではなく、我関せず戸棚の商品を眺めていた少女――ミーナだ。
「ここアルティア自治区は、二年前まではガレイル帝国の領土ではなく、
アルティア王国という一つの独立国家だったことは知ってるでしょ?
戦後、移住してきたガレイル人に元アルティア王国の住民は三等民族――
平たく言えば、奴隷として扱われているのよ」
「そういうことだよ。まったく、劣等民族の分際でよくも――」
「失礼。賊が捕まったと聞いてきたのだが」
言いながら店に入ってきたのは、黒い鎧のガレイル兵。
ぐるりと店内を見回して、縛られてぐったりしている二人組みを見つけるや、その顔にありありと侮蔑の色がにじみ出た。
「やれやれ、また三等民の仕業か」
「そうなんですよ。兵隊さん、どうか厳しくこらしめてやってください!」
「もちろんだ。ほら、立て。さっさとしろ!」
もう自力では立つこともままならないだろう二人組を、兵士は髪の毛を掴んで無理矢理立たせ、抜いた剣の切っ先を背中にぴたりとくっけながら小突くように歩かせた。
立ち止まったりしようものなら、その瞬間に剣が刺さるだろう。
事情をよく知らないワイドにとって、見ていてあまり気持ちのいい光景ではない。
「さてと。いやー、君たちありがとうね。
おかげで、これ以上うちの被害が出ずに済みそうだよ」
「あ、いや。通り合わせてほっとくのも後味が悪かっただけなんで」
ワイドはいわゆる賞金稼ぎだ。といってもまだまだ駆け出しの見習いだが。
とある国の平凡な農村に生まれた彼は、過去に村を訪れた一人の賞金稼ぎに憧れた
そして十七になった今年、生まれて初めて故郷を出て賞金稼ぎとなり、今ここに流れ着いたのである。
中央にある都パランから北東、国境沿いにあるこの町に到着した矢先、あの二人組みがこの店で盗みを働いて逃げる場面に遭遇したのだ。
「ははは。見たとこ兄ちゃん、傭兵か何かかい?」
「いや、賞金稼ぎっす。まだ駆け出しの新米っすけどね」
答えた瞬間、商品を眺めていたミーナがワイドの背に視線を転じた。
それに気づかないまま、ワイドは店主と話しを続ける。
「ガレイル帝国に大口の賞金首がいるっていう噂を聞いたんで、じゃーいっちょ俺が!と思って来てみたんですよ」
「大口の賞金首……ああ、あれかな」
店主が顎で店の壁を指した。見ると、そこには二枚の手配書が貼られている。
「あれは……あれがその賞金首?」
「そうさ。二年前のアルティア平定戦争の時、反乱軍を率いてガレイル軍に抵抗した――」
「『血染めの魔女』」
唐突にミーナが口を挟む。
ブーツで床を踏み鳴らしながら、壁に貼られた二枚の手配書をその手に取った。
「自らをそう称し、既存の魔法の比ではない不可思議な術で大量のガレイル兵を虐殺したという、アルティア王国の偽王女」
「偽王女?」
疑問符を頭上に浮かべたワイドに、ミーナが歩み寄って手配書の一枚を手渡した。
そこに描かれた人相書きは、ワイドやミーナと同年代の、金髪の少女。
「詳しいことはあたしも知らない。ただそう聞いているだけだから。
で、その懸賞の額を見ても、自分が捕まえるーだなんてことが言えるかしら?」
「んー……げっ!?」
めまいがした。0の数を数えるだけで、両手の指を全部使ってしまいそうな勢いだ。
その数字の下に書かれている賞金首の危険度ランクは、当然最高値のSSS(トリプルS)。
新米のワイドでは、命が幾つあっても足りない相手である。
「マジかよ……。俺とそんな年変わらないはずなのに」
「その人相書き、二年前から変わってないわよ。だから今はもう少し年取ってる」
「いやそれにしたってそんな変わらんだろうよ……ん? そっちは?」
突っ込んでから、ワイドはミーナが持つもう一枚の手配書を指差した。
一瞬、ミーナの眉がピクンと跳ねるも、ワイドはそれに気づかない。
「……『魔女の懐刀』」
その二つ名を口にしたミーナの瞳に宿った暗い光に、やはりワイドは気づかない。
手渡されたその手配書も受け取って、そして再び驚愕する。
「ぅおいっ!? 額の桁同じじゃねーか! 何なんだよこの二人組み!?」
こっちの人相書きは男だった。
真っ黒な髪、風変わりな服装、何より特徴的な左目の眼帯と、眼帯をしてもなお隠し切れない、左目にかかる縦に大きく走る傷の跡。
危険度はもちろん、SSSだ。
額も、さっきの『魔女』とやらより少々少ないだけで、ほとんど大差ない。
「い、一体何すればこんな賞金をかけられるんだ……?」
「……あんた、他人からよくおバカさんって言われない?」
「ああ、昔から近所の連中にしょっちゅう――って誰がバカか誰が!?」
しれっとした顔で知らんふりされる。
ワイドとミーナ、実は知り合ったのはつい先ほど。
ワイドがたまたま泥棒騒ぎに出くわしたのと同じく、ミーナもまた、偶然その場に居合わせたのである。
相手が二人組みだったから、じゃあこっちも。
初対面ながら数秒のアイコンタクトで互いの意図を読み取るあたり、相性はいいのかもしれない。
「ま、君には『魔女』の相手は厳しいだろうよ。おとなしく諦めときな」
「は〜、そっすね……」
「で。その代わり、というわけでもないんだが、一つ頼まれてくれないかい?」
唐突に。道具屋の店主は、そう切り出した。
「ここでいいのか?」
「いいんじゃない?」
半日ほど後。ワイドとミーナは、テールマナの町から北に位置する山の麓に来ていた。
道具屋の店主に頼まれて、不足している薬草を調達するためだ。
なんでも、仕入れのルート上にある橋が先日の長雨による河川の氾濫によって決壊してしまい、商品の入荷が滞ってしまっているという。
「自分で取りに行けばいいんだけど、あそこの森、野盗が出るって話をたまに聞くんだよ」とのことで、もし襲われても自衛出来る人間が欲しかったそうだ。
人数は多い方がよかろうと、店主はワイドだけでなくミーナにも依頼し、彼女は少し考えたあと、それを受けた。
「日が沈んだら厄介ね。さっさと行って、さっさと帰りましょ」
盗賊が出るかもしれないというのに、ミーナは恐れる素振りすら見せない。
自分の腕に自信があるのか、あるいは不確定な情報は信用しない主義なのか。
一歩森の中に足を踏み入れると、乱立する木立と生い茂る雑多な植物が出迎えた。
あちこちから鳥や蟲の鳴き声が小さく聞こえ、人の手が一切入っていない未開の森特有の薄気味悪さがある。
とはいえ言われた盗賊は出る気配もなく、また危険な動物もこれといって無し。
遠慮なくすくすくと成長した多様な植物のおかげで薬草を見つけるのが難しいことを除けば、もの凄く簡単な仕事だった。
「――!」
そんな時。二人の耳にはっきりと聞こえてきたのは、場にそぐわない甲高い金属の音。
互いに顔を見合わせると、並んでその方向に向かって走り出す。
ワイドは槍を引っさげ、ミーナは長剣短剣を両手に握り。
そうして足場の悪い藪道を走り続けることしばし。遠くに見えた人の影。
その数およそ、8。
「盗賊か?」
「みたいね。でも」
様子が変。口に出さずとも、それはワイドも感じていた。
その8人がいる場所はやや開けていて、盗賊が人を襲うにはもってこいのスペースだ。
7人は見るからに、如何にも盗賊という風体。
変なのは、残りの1人だった。
盗賊に周囲を囲まれているその人物は、全身を白い外套ですっぽりと包んでいる。
体はもちろん、フードで覆われているため顔もわからない。
男性にしては少々小柄だが、女性にしてはやや大柄な体躯。どちらにせよその背格好で1人なら、なるほど、盗賊の格好の獲物だろう。
だというのに。
「はぁ、はぁ、はぁ!」
「て、てめえ……なにもんだこのやろう……」
盗賊たちは皆、肩で息をしていた。全身汗だくで、顔には疲労の色が濃い。
対してフードの人物は、ただじっと無言で佇んでいた。
わずかに見える口は閉じたまま。つまり、息の乱れなどまるでない。
盗賊たちが皆武器を持っていることから、おそらくさきほどまで戦っていたのだろうということは容易に想像できる。
フードの人物が武器を持っているように見えないのが気になる点ではあるが。
一対七という圧倒的不利な状況にありながら、あの人物の方が盗賊たちを逆に圧倒している、ということなのだろうか。
やや離れた場所から眺めて、ワイドはそう判断した。
「くそ、舐めやがって!」
その人物の背後にいた盗賊が斬りかかるも、あっさりといなされる。
入れ代わり立ち代わりに盗賊たちが襲いかかるが、全員が攻撃をかすらせることすら出来ずにいた。
はっきり言って、段違いだ。
「……心配なさそうね。行きましょう」
隣で眺めていたミーナが剣を納め、その光景に背を向けた。
確かにあの人物なら、わざわざ助太刀する必要もないだろう。
槍を持つ手から力が抜け、ワイドもそちらに背を向ける。と、葉っぱが一枚、頭上からはらりと落ちてきた。
何とはなしに上を見上げ――木の枝の上に、弓を引き絞る盗賊の姿。
「危ねえ!」
ほとんど無意識に、ワイドはフードの人物に大声で警告していた。
声は届いたらしく、その人物の顔は確かにこちらに向けられる。
同時、頭上から弦音。放たれた矢はまっすぐにその人物に飛んでいき。
しかし七人もの相手を手玉に取るその人物にとって、たかが矢一本。その場から冷静に一歩動き、あっさりと矢を回避した。
と、ワイドの背後でミーナが剣を抜く音。振り返ると、彼女が樹上の盗賊めがけ、短剣を投擲。
見事命中し、盗賊は背中から地に落下した。
短剣が刺さっているのは右肩。急所ではないし、動かないのは単に落下のショックで気絶しているだけだろう。
「くそ、仲間までいやがったのか!?」
「いったん退くぞ!」
頼みの狙撃手を失ったことが大きかったようだ。
盗賊たちは踵を返し、森の奥へと消えていった。
「――すまない。助かったよ」
逃げるその背を見送っていると、いつの間に近くまで来ていたのか、フードの人物が礼を言ってきた。
声からして、男性らしい。
「君の警告が無ければ、反応が遅れるところだった」
「ああ、いや。ほとんど反射的に叫んだだけなんで、礼なんか別にいいっすよ」
顔は見えないが、口調に含まれる謝意は本物だった。
照れくささにそんな返事をするワイドとは対照的に、ミーナの彼を見る目は疑念に満ちている。
「あな――」
「君たちは何でこんなところに?」
彼女の視線に気がついたのか否か。ミーナが口を開くと同時、男性の質問が彼女の言葉を飲み込む。
「こっから南にある町の道具屋から、薬草取ってきてほしいって頼まれたんですよ。
何でも橋が壊れて、仕入れが出来ないから在庫が不足してるらしくて」
そんな会話を何度か交わした後、その男性もわずかな時間だが一緒に薬草を探してくれた。
彼も目的は一緒だったらしく、礼も兼ねて、ということだ。
もっとも、あまり時間が無いということなので、結局すぐ別れてしまったのだが。
「じゃ、縁があったらまた会いましょう!」
笑顔でそう言うワイドに、彼の口の端に浮かんだ笑みはひどく曖昧で。
しかしワイドは、それが曖昧であることには気づいたが、そんなことは気にしていなかった。
その曖昧な笑みの意味をその後すぐ知ることになるなど、彼に知る由などなかったのだから。
「――こほっ、けほっ」
「ん?」
テールマナへの帰り道。
昼間はそこそこ人の通る街道も、夕暮れ時ともなると寂しい光景が広がっている。
そんな物悲しい街道の脇を流れる小川。それに沿うように立つ一本の木。
その根元に、誰かが腰かけていた。
全身を白い外套に包み、フードで顔まで覆った人物が。
「あれ? あの人、何であんなところにいるんだ?」
「…………」
森で出会った彼は別れたあと、ワイドたちとは違う道を進んでいたはずだ。
にも関わらず、何故こんなところで座っているのだろうか。
後ろでミーナの顔つきが険しくなっていることに気づかぬまま、ワイドは彼のもとまで歩いていく。
「どーも。またお会いしましたねー!」
「――えっ!?」
気安いワイドの言葉に返ってきたのは、想像とまったく違う反応だった。
全身をびくんと震わせて、慌てて立ち上がって振り返るその姿。
おまけに、声がまるで違ったのだ。今の声は、間違いなく若い女性のもの。
「……あれ? あ、えと、すいません。人違いでした。なんかよく似た格好だったもんで」
「え? あ、そ、そうですか」
ワイドが謝ると、心底ほっとしたのか、わずかに見える口に小さな笑み。
よく見れば、さっきの彼より一回り小柄な体格だった。座っていたのに加え、その格好のせいでわかりにくかったのだろう。
と。
「あの、一つお尋ねしてもいいですか?」
ワイドの背後にいたミーナが、妙ににこやかな微笑みに外向けの高い声で女性に問いかける。
「どうして、フードで顔を隠していらっしゃるんです?」
「――それは、その……昔、顔にひどい火傷をしてしまいまして」
「お、おいミーナ。いきなり何聞いてんだよ。失礼だろ?」
「あ、そうなんですか。女性なのに顔に火傷……お辛いですね」
ワイドが諌めるのを無視し、ミーナはなお続ける。
じりじりと、まるで追い詰めるように女性との間を縮めながら。
「でもそれでしたら、どうです? 私、火傷によく効く薬草を持ってるんですけど」
「い、いえ……。お気持ちはありがたいのですけど、子供の頃の跡ですから……」
「そうですか? でもだったらなおさら、ダメで元々で試してみません?」
じりじりと近づくミーナと、それを察してじりじりと後退する女性。
やがて女性が、あと一歩で小川に落ちるというところまで追い詰められたとき。
ミーナが、いきなり剣を抜いた。
驚いたワイドが止める間もなく、ミーナは遠慮もなにもなく女性めがけて剣を振り抜き――紙一重で、回避される。
「ふーん。今の不意打ちをかわせるんだ。でも――」
横へ転がって回避し、肩膝をついた姿勢でミーナと対峙する女性。
その顔を覆うフードが、真っ二つに斬り裂かれ。
現れたその顔を見て、ワイドは一瞬自分の眼を疑った。
「……え? あれ、おい……確か、あんた……」
「やっぱりね。聞き覚えのある声だと思ったのよ」
少々の差異はあった。
例えば、二年という歳月を経て人相書きより幾分大人っぽい顔つきとか。
例えば、二年前は下ろしていた金髪を、今は結わえているとか。
けれども、二年くらいで人間の見た目は劇的に変わることはない。
凛々しくもどこか儚さの漂うその顔は、昼間の道具屋で抱いた印象とあまりにそっくりで。
しかしそれは当然だ。なにせ今目の前にいるのは、まさに。
「何で一人でこんな所にいたのか知らないけど、見つけた以上は覚悟してね。
『血染めの魔女』――ラピュセル・ドレークさん?」
ミーナのその言葉への返答か。
ラピュセルは外套を脱ぎ捨てると、右の腰に下げられていた剣を抜いた。
「一つ、聞いてもいいかしら?」
すぐにでも斬りかからんとしていたミーナの足を止めたのは、意外にもラピュセルの言葉であった。
「聞き覚えのある声と言っていたけど、以前どこかで会っていた?」
「……ふん」
だが、それに答えるつもりはないらしい。
忌々しげにその問いを鼻で笑い飛ばし、ミーナはラピュセルに斬りかかった。
右の長剣と左の短剣で舞うように攻撃を繰り出す。未だに唖然としていたワイドは、その軽やかな剣技を見せ付けられて我に返った。
取りこぼしかけていた槍を握り締め、ラピュセルの死角へと回り込む。
二対一ならば正面からでも、とは思ったものの、そこは危険度SSSの賞金首。
卑怯でも何でも、数の利があるのならそれを利用しない手はない。いや。
「はああああああ!」
利用しなければならない。
ミーナの怒涛の攻めは、しかしただの一太刀すらラピュセルに届いていなかった。
体のこなし、足運び、技量。どれをとっても、彼女ははっきりワイドの数段上をいっている。
だが、その彼女が全力で挑んでいるというのに。ラピュセルは涼しい顔で全ての攻撃を凌いでいた。
それだけでも、彼女の実力の一端が垣間見える。
槍と剣とのリーチの違いなど、何のハンデにもならないだろう。
ならば。
「――――」
ラピュセルの背後に回りこむと、ミーナがほんの一瞬、ワイドを見た。
ワイドがその意図を察するより数瞬早く、ミーナが動く。これまでよりなお大きく。
急ぎワイドもその動きに追随。
前にミーナ、後ろにワイド。如何な実力者といえど、前後からの挟撃には対処の仕様は――
だが、それは通用しなかった。
それまで動かなかったラピュセルが、ここにきていきなり地を蹴ったのだ。
それもミーナよりなお速く。その彼女に向かって突進していく。
不意を衝かれ、ミーナの足が止まった。反射的に守りの体勢に入った彼女に、ラピュセルは剣――ではなく、なんと肩から当て身を食らわせる。
「なっ!?」
「はぁっ!!」
バランスを崩したミーナに、今度こそ剣が振るわれた。左手の短剣が弾き飛ばされ、彼方へと消えていく。
苦し紛れにミーナが長剣を振るうが、そんなものがラピュセルに当たるはずもなく。
悠々と回避すると、何の素振りも見せないまま、今度はワイドに向かって走り出した。
そのとき初めて、ワイドはラピュセルと正面から視線を交わす。
「――」
悟る。思考ではなく本能で。
ミーナとの差が段違いならば、ラピュセルとの。『血染めの魔女』との差は。
桁違いであると。
そして、そのままワイドは吹っ飛ばされた。
ボロボロだった。
不思議なことに、ラピュセルは二人を殺そうとはしないものの、ワイドもミーナも全身に細かな傷を刻まれて、それ以上に疲労困憊で動けない。
だが二人を同時に相手にしていたラピュセルには傷一つなく、どころか息を乱してすらいない。
正直なところ、直に彼女の顔を見たワイドは唖然としながらも、心のどこかで彼女を甘く見ていた。
年の近い女性であり、しかも得物は剣。向こうは一人、こちらは二人。
あらゆる面で、状況はワイドたちに有利だったのだ。
だが二つだけ、ワイドは読み違えていた。
圧倒的な実力の差と、何より潜ってきた死線の数の差を。
「……もし」
二人を見据える目に油断の色はないまま、ラピュセルが口を開く。
「もし、今日私と出会ったことを口外しないと約束してもらえるのなら、この場は見逃してあげる」
「なん、ですって……?」
ミーナが歯を食いしばる音。
「情けをかけるとでも? 確か『血染めの魔女』は、敵に対して一切の容赦はしないはずじゃなかったかしら?」
「敵に対しては、ね」
「…………」
つまりラピュセルにとって、ワイドたちは敵ですらないということなのだろう。
「ふん……。随分となめられたものね!」
立ち上がり、ミーナがラピュセルへと突進する。
短剣を失い、動きは疲労で遅くかつ単調。
そんな攻撃がラピュセルに届く道理などなく、案の定あっさりとかわされた。
だがそれでもミーナは諦めず、届くはずのない攻撃を繰り出し続ける。
「あくまで刃向かうと?」
「当たり前でしょ……! 誰があんたたちなんかに!」
「そう。なら――」
無造作に振るわれた一撃が、ミーナの剣を弾く。たたらを踏む彼女に向かって、ラピュセルが一歩踏み出した。
「悪いけど、これで終わりにさせてもら――――!?」
いきなり、ラピュセルの表情が凍りついた。
その場から大きく跳び退いて、ワイドたちとの間合いが大きく開ける。
それを疑問に思う前に。
「――ごほっ、ごほっ! けほっ!」
剣を取りこぼし、その場で体を丸くしてうずくまり。ラピュセルは激しく咳き込んだ。
立っていられないほどの発作らしい。手は口を押さえたまま離れず、たまに咳が落ち着くと肩で激しく息をして、そうしているとまた襲いくる発作に珠の汗が額にびっしりと張り付いていた。
まさか彼女、何かの病に冒されているのだろうか。
と、ミーナが右手の剣を振りかぶった。
「お、おい。お前、何を……」
「あんた、知ってる? ランクA以上の賞金首は、生け捕りにする必要はないってこと」
「は?」
「つまり――殺してもいいっていうことよ!」
言うなり、ミーナはその剣を投擲した。
勢いこそ弱いものの、狙いは正確無比。剣はまっすぐに、うずくまるラピュセルに向かって飛んでいき――弾かれた。
「……!」
「あ、あんたは……!」
いきなり割り込み、剣を弾いたその人物は、全身を外套で包んだあの男性。
突然の彼の登場に驚いて思わず立ち上がったワイドは、その彼が右手に武器を持っていることに気がついた。
見慣れない拵えの、片刃の剣。
「……もう出会わないことを望んでいたが、まさかこんなにも早く望みが絶たれるとはな」
「え?」
その声は確かに、森で出会った彼のもの。
だがその言葉に含まれる冷たい響きに、ワイドは絶句した。
ただそれだけで、全身が寒くなる。足が前に出ることを拒絶する。
「なるほどね。なんでいないのかずっと疑問だったんだけど、そういうことだったんだ」
立ち上がるミーナを振り向いて、ワイドはまたしても言葉を失う。
武器を手放し、今は丸腰であるというのに、今にも眼前の男性に襲いかからんとするその双眸。
それに宿る暗い、黒い激情はすなわち、憎しみ。
「ご主人様のために、せっせとお薬取りにでかけてたわけね。噂に違わない忠犬っぷり。反吐が出るわ」
「…………」
「黙ってないでなんとか言ったらどうなのよ。『魔女の懐刀』さん」
「え?」
しばしして、男性は左手で外套を一息に脱ぎ捨てた。
明るみに現れたその姿は、忘れるはずもない。
黒く長い髪、見慣れない服装、そして何より左眼の眼帯。
昼間見た手配書の人相書きと、ほとんど同じその風貌。
間違いなく、『魔女の懐刀』。ある意味で『魔女』よりも恐ろしいとさえ言われる男。
陽の下の国より来たるサムライ、天馬武蔵だった。
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